郡山御城之図(所在:奈良県立図書情報館)

大和郡山って?
金魚と田園が彩る大和平野のまち
奈良県の北部、大和平野のほぼ中央にあり、大阪市からは約25km、京都市からは約40km、奈良市の隣に位置します。穏やかな奈良盆地の平坦な景色のなか、北西には矢田山や松尾山を抱く矢田丘陵が広がり、大和川の支流・佐保川と富雄川が流れています。全国でも有数の金魚の生産地で、金魚池やため池が織りなす田園風景が広がります。



歴史と今がつながる城下町
中心市街地は、戦国時代に郡山城主となった豊臣秀長の商業政策によって栄え、その文化は今も脈々と受け継がれています。郡山城跡やその周辺の歴史資源は、観光名所として多くの人に親しまれています。
現在、大和郡山市では、さらなる魅力のあるまちづくりをめざし、使われなくなった遊休不動産を活用する「リノベーションまちづくり」に取り組んでいます。風情のある空き家や空き店舗などの資源を活用した新しい店舗が次々と誕生し、城下町では物語が紡がれ始めています。
また、近鉄郡山駅周辺では、令和12年度中の新駅供用開始、令和14年度中の東側駅前広場・バスロータリー・駐輪場などのグランドオープンをめざす近鉄郡山駅周辺整備事業が進められ、大きくまちが生まれ変わろうとしています。
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予定
会期中は原則的に無休で開館(「大河ドラマ館」の休館日は休館とする)

展覧会「秀長と郡山の歩み」
古代から近世に至るまで、大和郡山の歴史が一度に体感できる展覧会です。
展示資料は、すべて大和郡山市が所有するもので、普段はなかなか見ていただく機会が少ない資料が一同に並びます。
- 開館時間
- 〜
- 場所
- 東多聞櫓内ギャラリー
(史跡郡山城跡内) - 入館料
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大人300円
小学生、市内中学生、市内在住または市内に所在する高校に通学する高校生は無料

豊臣秀長
誰もが一度は聞いたことのある「豊臣秀吉」の弟です。豊臣秀吉の腹心にして、稀代の名補佐役であった秀長。兄・秀吉とは異なる才覚と誠実さで知られ、その知将ぶりと人望で郡山に繁栄をもたらしました。今も市民から「秀長さん」と親しみを込めて呼ばれています。
また、織田信長のもとで兄・秀吉を支えながら、多くの合戦に参加し、数々の武功を上げました。本能寺の変で信長が没した後も、「山崎の戦い」や「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」など、重要な合戦に参加して兄・秀吉の天下取りを補佐しました。
ゆかりの史跡

1.郡山城跡
秀長が築いた豊臣政権の
拠点のひとつ
1585(天正13)年に郡山城に入城した秀長は、大規模に城を整備しました。本丸や堀など、現在見られる郡山城の姿は、秀長・秀保・増田長盛の豊臣政権期15年間で整ったと考えられています。
秀長は築城にあたり、奈良一円から石垣用の石材を集めました。その様子は興福寺多聞院の僧・英俊が残した『多聞院日記』に詳しく書かれています。多くの寺社から石材が集められたことや、寺社の「恨み節」が伝わっています。
郡山城の石垣には「逆さ地蔵」や「伝羅城門礎石」など、大量の転用石材が使われています。これらは秀長が集めた大量の石材の一部と考えられます。郡山城の築城と同時に、高取城や宇陀松山城に豊臣家の家臣を配置して、郡山城を中心とした豊臣政権による大和の支配体制を確立しました。

そして今
現在、天守は残っていませんが、本丸、毘沙門曲輪(びしゃもんくるわ)、常磐曲輪(ときわくるわ)などの城郭中心部は、内堀や石垣が良好に残っています。また、追手門や追手向・東隅の櫓(やぐら)は、秀長の築城当時をイメージして再建されており、往時の姿をしのぶことができます。
郡山城跡には、堀を囲むように約800本のソメイヨシノなどの桜が植えられており、「御殿桜」とも呼ばれています。
近年の主なできごと
- 市民活動により追手門が再建される
- 数年にわたり追手向櫓・追手東隅櫓などが再建される
- 「日本さくら名所100選」(公益財団法人日本さくらの会選定)に選ばれる
- 4か年にわたって行われた石垣の修復と天守台展望施設の整備事業が完成
「続日本100名城」(財団法人日本城郭協会選定)に選ばれる - 極楽橋が再建される
- 郡山城跡が国の史跡に指定される
秀長がつくった城下町

和州郡山城絵図 国立公文書館所蔵


秀長は城下町を整備して、その振興にも力を入れました。現在まで続く城下町の「町割り」は、秀長の頃には完成していたとみられます。城下町の施策として、最も特徴的な「箱本」制度は、秀長の時期につくられたものです。「箱本」制度は、城下町の各町が、警護・火事の対応・伝馬の管理など、城下町全体に係わる役割りを一月ごとに交代で担当する仕組みで、自治の始まりでもあります。月の当番となる町が、重要な書類を納めた「御朱印箱」を持ち回りで管理しました。
1591(天正19)年、これらの町は地子(宅地税)が免除され、「内町」と呼ばれるようになります。江戸時代の歴代藩主もこの特権を認め、明治維新を迎えるまで続きました。秀長がつくった城や城下町は、現在も大和郡山の都市基盤となっています。
2.源九郎稲荷神社

秀長が祀った郡山城の
守護神・白狐「源九郎狐」
歌舞伎・文楽の『義経千本桜』に登場する「源九郎狐」を祀る神社で、日本三大稲荷の一つに数えられます。戦国時代、秀長と親交のあった長安寺村の僧 宝誉(ほうよ)の夢枕に、白狐が老翁(ろうおう)の姿となって現れて郡山城の守護神になることを告げたそうです。宝誉の話を聞いた秀長は、この白狐を鎮守として城内に祀ったと伝えられています。その後、江戸時代中頃の1719(享保10)年に現在の洞泉寺町に遷座しました。

そして今
歌舞伎・文楽『義経千本桜』の上演前に、演じる役者さんが興行が無事終わるように、祈願に来られます。また、毎年「お城まつり」では、白衣に狐面をかぶった子どもたちが町を練り歩く「白狐渡御」が行われます。かわいらしい白狐たちが列をなす光景は、城下町の春の風物詩となっています。
4.春岳院

大納言 豊臣秀長の菩提寺
春岳院には秀長の位牌があります。秀長が郡山城下に定めた商工業者への特権は江戸時代にも受け継がれ、春岳院は町人たちから篤い信仰を集めました。秀長の肖像画(市指定文化財)や「箱本制度」に関する古文書をおさめた御朱印箱(県指定文化財)が保存されています。
1989(平成元)年には、多数の市民の浄財により、秀長公木像が完成しました。
ゆかりの日カレンダー
秀長が過ごした大和郡山。今も残る当時の日記や記録には、日々の行動やできごとが細やかにつづられています。
大和郡山で紡がれた歴史の一瞬を思い描きながら、秀長の時代に思いをめぐらせませんか。
(天正13年)
秀長、秀吉と
ともに大和国へ
秀吉が関白になると、秀長は大和・和泉・紀伊を領有し、城主として郡山城に入ります。入城後は、郡山城の整備や城下町の振興に力を入れました。1587(天正15)年には朝廷の官位も権大納言に昇格し、「大和大納言」と呼ばれるようになります。
(天正13年)
秀長の妻が
郡山城へ入城
秀長の入城から少し後の9月18日、妻が郡山城に入城しました。続いて、9月27日・28日には、秀長とともに、興福寺へ出かけました。
(天正16年)
あの家康が
郡山へやってきた!
家康が郡山まで来るので、秀長は木津まで迎えに行きました。9月1日、秀長と家康は、興福寺の子院である成身院を宿にして交流を深めました。9月2日、秀長は、上京する家康を笠置まで見送りました。
(天正16年)
毛利輝元、小早川隆景、
吉川広家も郡山へ
大坂を経由して安芸に帰る途中の3人を、秀長が馬を引く役人も追いつけないほどの速さで迎えに行ったとか。翌日には郡山城に招き、能の上演を催すなど、心尽くしのおもてなしをしました。
(天正16年)
輝元、隆景、広家と
一緒に春日社へお参り
秀長は3人を郡山城での茶会に招いた後、奈良見物にも同行し、猿沢の池、采女塚、興福寺、東大寺の大仏、二月堂、若草山、三笠山をめぐりました。午後10時ごろに宿所に戻った後にも、酒宴が開かれ、深夜0時ごろまで続いたそうです。
(天正17年)
〜
秀吉が奈良へ赴き、
郡山に逗留
秀吉の目的は、足利義満や織田信長ら権力者が切り取ったことで知られる「東大寺 蘭奢待(らんじゃたい)」を得ることだったともいわれます。しかし実際には鷹狩りを楽しんだのみで郡山へ移り、19日だけ滞在して20日には大坂へ帰りました。
(天正18年)
秀吉が
秀長の見舞いに
秀吉が諸大名を従えて郡山へ。翌朝に「秀長が夜明けに亡くなったため早朝に帰った」といううわさが流れたそうですが、実際には秀長は病床に伏していました。弟の回復を願った秀吉は、八坂神社はじめ9つの神社に勅使を立て祈願をさせました。
(天正19年)
正月
秀長の娘と、
秀保が結婚
秀長の死の直前、秀長の娘は、秀吉と秀長の姉・瑞龍院の子である秀保と結婚しました。
(天正19年)
秀長、病により死去
(享年51歳)
入城後は、郡山城の整備や城下町の振興に力を入れましたが、1591(天正19)年に、郡山城内で病により亡くなりました。同月29日に郡山で行われた葬送には諸大名が参列し、見物の人々は20万人に及んだと伝えられています。没した時、秀長家には多くの財宝が蓄えられていたといいます。
日付は、すべて旧暦で表記しています。
- 参考文献
- 河内 将芳 「図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石」, 戎光祥出版, 2025年5月
- 著:英俊 編:辻善之助「多聞院日記第3巻・第4巻」三教出版 1936年11月

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